地図について
丸で囲まれたカタカナは、右写真の案内看板「阿仁ぶらマップ」に合わせています。
丸で囲まれた英文字は、上記に追加したポイントです。
丸文字の色分けは、オレンジ:寺院青:神社緑:その他の史跡等となっています。

地図を縮小していますので見にくいのですが、
国道はオレンジ色で、旧国道及び、国道への接続道路は黒太線で2車線程度の幅員あります。
それ以外は黒細線で表示、ほぼ1車線の生活道路です。灰色線は車両通行が困難(通行可能も含む)な道路です。

お願い
道路幅員が1車線程度以下の道路は生活道路ですので、出来ましたら車両通行はご遠慮いただけますようお願いいたします。なお、阿仁中学校から診療所付近を通り水無坂までの道路(旧道)は、普通車に限って通行可能です。
駐車可能なスペースは地図上に記載されていませんが、駅、JA、市役所、開発センター、公民館、伝承館には駐車スペースがあります。公共機関ではありますが、学校、診療所での駐車はご遠慮下さい。

駅名になっている「阿仁合」は古い町名で、過去にも現在にも地名としては存在していません。
阿仁地区は明治22年4月に「阿仁銅山村」「荒瀬村」として誕生しました。(それ以前の変遷は省略します。)「荒瀬村」は現在の「荒瀬」以南、農林業が主体の村です。それ以北が「阿仁銅山村」で鉱山を主体にした村でした。
明治30年1月、町制が施行され、「阿仁銅山村」は「荒瀬」を編入し「阿仁合町」となり、「萱草」以南は「大阿仁村」と改名します。(ここで「阿仁合」が登場します)
昭和30年4月、「阿仁合町」と「大阿仁村」は合併し「阿仁町」となり、平成17年4月、周辺の町(森吉、合川、鷹巣)と合併し「北秋田市」が誕生しました。
会話等で「阿仁合」と言う場合は大雑把ですが、水無(湯口内、新町、大町、東裏)、銀山(下新町、上新町、畑町)を指すことが多いです。

 

阿仁合」は鉱山で栄えた町です。
阿仁鉱山の歴史は古く、鎌倉時代に金山が発見されたと伝えられています。
阿仁鉱山とは、小沢、萱草、一ノ又、二ノ又、真木沢、三枚、大沢、天狗平、黒滝、糠内、深沢などの鉱山を合わせて呼んだものです。
慶長年間(1596〜1614)には金の産出量が減少し、代わりに銀の産出量が増えていきます。
阿仁鉱山が有名になったのは銅でした。寛文10年(1670)、小沢銅山の発見を皮切りに銅山が次々に発見され、阿仁は全国有数の銅山のまちとして栄え、享保年間(1716〜1735)には産銅日本一となったほどです。
それまでは、佐竹藩、秋田県、工部省の管轄でしたが明治18年(1885)民間に払い下げられ、古河鉱業が経営にあたりました。
明治から大正にかけては活況をみせていましたが、世界恐慌のあおりで銅の価格が下落し、昭和6年(1931)にはついに休山となってしまいます。
しかし、昭和8年(1933)に二十四孝の山頂部に金が発見され操業を開始、銅山も昭和11年(1936)には再開されます。阿仁鉱山はふたたび活気を取り戻しましたが、昭和43年(1968)頃から産出量が減り始め、昭和45年(1970)とうとう閉山されることになり、鉱山に幕が降りました。

 

以上、わがまちの歴史と文化(阿仁町)より抜粋

 

阿仁診療所付近から市役所、駅方向を望む

  

水無坂から商店街を望む

  

下水道のマンホール蓋は熊を図案化

  

駅前の駐車場にある案内看板「阿仁ぶらマップ」

 指月庵閑居堂(しげつあんかんきょどう)

 

享保2年(1717)、福厳寺に一人の青年僧が訪れた。察禅というその青年は美しい顔立ちをしていたので、近在の女性に慕われた。当時、女性が難産に苦しみ、母子共に死んでいくのを憐れみ、53歳のとき、女人の守護と子授け安産を祈願して21日間断食し、岩窟に入って結跏趺坐(けっかふざ)し禅定に入った。明和2年(1765)5月13日のことであった。入定地には現在堂宇が建ち、参詣者が多い。(阿仁町史より抜粋)

読み方これで合っていますか??

 庚申様(こうしんさま)

 

建立、由来は不明です。
 
庚申とは、十干、十二支の60通りある組み合わせのうちの一つであり、庚申の年、日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされました。
庚申の日には夜に眠らずに過ごす風習があり、男女同床せぬとか、結婚を禁ずるとか、この日結ばれてできた子供に盗人の性格があると恐れられたりする因習もありました。
庚申信仰では青面金剛と呼ばれる神体を本尊としますが、神道の猿田彦神とも結びついています(猿=申)。
また猿が庚申の使いとされ、庚申塔には三猿が添え描かれることが多いです。

 福厳寺(ふくごんじ)

 
天龍山 福厳寺 曹洞宗
戦国の世、播州吉田から落ち延びた赤松刑部少輔盛光が、風張村(現阿仁吉田)に
天文3年(1534)赤松一族の菩提寺として建てました。
天明6年(1788)に阿仁水無に移転します。
11世住職の安宝察禅は、女人の守護と子授け安産を祈願したことで知られ、安産神として信仰されています。(上記、
指月庵閑居堂を参照)

山門はなく質素ですが、阿仁最古の寺で、本尊の釈迦牟尼仏は足利時代のものです。

 

余談

阿仁以外の北秋田市、上小阿仁村の寺院はほとんどが曹洞宗です。これは旧藩時代の藩主の菩提寺天徳寺が曹洞宗であったためとされています。
阿仁は鉱山が栄えた時期に他の地域から人が集まり、宗派も異なっていたため多宗派の寺院が建造されました。

 新町愛宕神社(しんまちあたごじんじゃ)

 
建立、由来は不明です。
鳥居の奧にある祠にはキツネ様が祀られていました。お稲荷様??東京や京都にある愛宕神社とは由来が違うのでしょうか?
もしかして、奥の方に見える建物(写真右下)が愛宕神社なのでしょうか?そう考えると、赤い鳥居はお稲荷様用、白い鳥居が愛宕神社用に見えなくもない・・・。
 
ちなみに、東京の愛宕神社は、徳川家康公の命により防火の神様として火産霊命(ほむすびのみこと)を主祭神に祀り、京都の愛宕神社は、全国に約900社ある愛宕神社の総本社で、愛宕山に由来し、こちらも防火に御利益があると言われています。伊弉冉尊(いざなみのみこと)などを祀っています。

 北緯40°カントリーパーク
   (阿仁河川公園)

 
樹齢は若いものの桜がズラリと植えられており、春の花見に最適。川へのアプローチも考慮されており、夏は水遊びが出来ます。
一画に「カラミ(鉱石製錬カス)山」があり、鉱山のまちを偲ばれる場所です。

 北緯40°シンボルタワー

 
北緯40°のまちを記念し建てられたモニュメントです。
「夢の狩人」と称しリングは地球を表現し、マタギの銃を40度の角度をもって宇宙を見据えている。(と、説明書きがあります)
公民館の一角にあります。 

 無縁塔・源内坂

 
無縁塔

鉱山領分で不心得な事をした者が領分外へ追放された場所、いわば治外法権の境界ともいわれています。文化13年(1816)建立で200年の歴史を持つ古碑です。
現在の水無と銀山の領分境でもあります。

 

源内坂

江戸時代、阿仁鉱山の技術指導で訪れた平賀源内が歩いたと伝えられる坂です。 

 水無神明社(みずなししんめいしゃ)

  
天正年間(1573以降)梅村市兵衛の開基と云われ、伊勢の国から当地へ移ったときに御神体を持ち帰り、敷地内に建てた社が現在の神明社で、皇大神(天照大神)を祀っていました。
明治6年(1873)に当時の水無村の村社となっています。
現在では、
天照大神を始めとし、少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)、伊邪那美命(いざなみのみこと)などが祀られています。
境内にはほかにも、北野神社、稲荷神社、金比羅様、庚申塚、当地に縁のある人物の石碑等が建てられています。

 

正面に社が5軒並んであり、中央(写真下左)に神明社の社殿がありますが、他はどれの物なのか分かりません。不勉強で申し訳ありませんがご自身で確認して下さい。

 長福院(ちょうふくいん)

 
真言宗智山派で、正式名称は「明池山観音寺長福院」といい、11面の観音尊が祀られています。

佐竹藩の祈願所なので檀家はなく、創立年も分かっていません。
観音堂は元禄2年(1689)
に建てられた物です。

 

石灯籠は市指定の文化財で、北前船で大阪から運んだといわれている御影石製の灯籠です。

ここ以外に、銀山神明社、山神社にも同様な石灯籠が置かれています。

 銀山神明社(ぎんざんしんめいしゃ)

 
天文年間(1532〜1554)の創立と言われ、向山銀山が開発されたときに建造されたものと思われます。
銀山地区(上新町、下新町、畑町)の氏子区域の総鎮守としてきた由緒ある神社であり、明治6年(1873)には当時の銀山村の村社となっています。
祭神は
天照大神(あまてらすおおみかみ)、少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)、伊邪那美命(いざなみのみこと)等です。
石灯籠は
市指定文化財になっています。

 阿仁合駅

 
巨大な三角屋根が特徴的な駅舎です。
昭和11年(1936)当時の国鉄阿仁合線、阿仁前田−阿仁合間が開通し開業。昭和38年(1963)には比立内まで延伸。昭和61年(1986)秋田内陸縦貫鉄道に転換しました。

駅舎内には売店とレストラン「こぐま亭」があり、観光案内所が設置されています。また、駅舎左手には「内陸線資料館」があります。
この駅舎は平成元年(1989)に建て替えられたものですが、それまでの古い駅舎も風情があって好きでした。

 異人館・伝承館

  
異人館(写真上)

平成2年(1990)国の重要文化財に指定されています。

正式には「旧阿仁鉱山外国官舎」と言います。

異人館は明治12年(1879)明治政府が銅山に近代的製錬技術を導入するために、ドイツ人技師、メッケル、ライヘルら5人を招いた際、その住宅として建てられました。
建築様式はハーフテンバー(木骨レンガづくり)と呼ばれるもので、全国的にも珍しく、木造の洋館としては秋田県ではもっとも古いものです。
現存するのは本来は別棟として使われていたもので、本館は昭和28年(1953)の火災で焼失しています。
また、昭和57年(1982)の森吉山直下型地震で被害をこうむり、町は県の補助を受けて修復工事を行っています。

 

伝承館(写真下)

正式には「阿仁郷土文化保存伝承館」といいます。
鉱山で使用していた工具や鉱石、資料はもとより、地域の伝統芸能の資料、石碑、古い町の施設(ポストや鉄道で使用していた椀木もあります)などがあります。
異人館とは地下通路で結ばれていて、異人館は外から入館できません。

大人一般料金:\400
入館時間:AM10:00〜PM6:00(12〜2月は5:00まで) 
休館日:祭日を除く月曜日

(平成26年現在です)

 善導寺(ぜんどうじ)

光明山悟真院 善導寺 浄土宗
小渕に城を構えた高田氏は吉田の風張城松橋氏に押され三代で崩壊。当主は城を逃れ水無で頓源五之丞と名を変え、元和2年(1616)自宅に善導寺を建て、土崎港満船寺住職を招いて開山しました。

共保4年(1719)火災にあい元文元年(1736)檀家の寄付で再建。さらに大正2年(1913)銀山大火で焼失、翌年に再建されています。
本尊は阿弥陀如来です。
墓地の一角にある青銅製大仏様と青山清左衛門の墓石は市指定文化財です。

 法華寺(ほっけじ)

金銀山 法華寺 日蓮宗
元和元年(1615)向山金山の山長であった山王丸七兵衛が開基した寺です。
その後、明暦年間(1655〜1657)米内沢へ移転したが、元禄4年(1691)に現在地へ再び移りました。
以来、鉱山の盛衰とともにあったが、災害に遭うこともなく、また移転の際は材料をそのまま使用したため300年以上経った建物でした。残念ながら老朽化のため平成2年(1990)に本堂が建て替えられています。
身延山の分身である萱草七面山の七面大明神を祭紀しています。

 善勝寺(ぜんしょうじ)

金山 善勝寺 真宗大谷派 
慶長年間(1596)清和源氏木曾義仲の家臣、今井権頭四郎兼平の次子が戦に落ち延び、阿仁で善勝寺を開創したとされています。(阿仁町史では氏名不明とされていますが、門前の説明板では今井了順と記されています。)
寛文(1661〜1672)の頃、銀山が衰退して人家が30戸足らずに減り、各寺々が諸方に移ったときも、
善勝寺だけが当地に残ったため檀家も多いと聞きます。
小沢鉱山を発見した、高岡八右衛門の墓があります。(白狐の化身である別れた女房のお告げによって小沢鉱山を発見したという伝説があります。)
境内はモミジ、イチョウ等の落葉広葉樹で覆われ、秋の紅葉シーズンは綺麗だと思います。

 専念寺(せんねんじ)

一心山圓信院 専念寺 浄土宗 
京都知恩院末寺であり、昔は真木沢の台所林の下にあったといわれ、元和2年(1616)に現在地に再興されました。
元禄6年(1693)能代の椙野庄左衛門が都知恩院の山門を形取って山門を建立しました。延宝年間(1673〜1680)に火災に遭い、近年になって再び焼けてしまいました。現在の山門は1800年後期の建立で市指定文化財になっています。
山門の前に秋田内陸線の線路があり、列車からもよく見えます。正面左手には踏切があり、普通はそちらを通りますので山門をくぐるのは観光者がほとんどです。(山門前には踏切、踏切板がありません)

 弁天様・安成二郎文学碑・佐藤信直頌徳碑

坂の途中に三つ並んでいます。坂の下から順に弁天様・安成二郎文学碑・佐藤信直頌徳碑になります。写真の並びも左から並んでいます。
元々は草むらだった場所でしたが、道路線形変更後(以前は急勾配の直線道路でした)に移転したものと思われます。佐藤信直頌徳碑は当時阿仁第一中学校のグラウンド(現保育所)の高台にありました。

弁天様
弁財天ともいわれ、七福神の中で唯一の女神で、音楽財福、知恵の徳を持つと言われ、当地の弁天様は琵琶を持っている。(説明板より)

安成二郎 石碑建立は昭和45年(1970)
戸籍上は明治21年1月15日生まれとなっているが、実際は明治19年9月19日生まれである。
父の怪我、病気のため家計が苦しく、大館中学校を3年で中退し古河鉱業の東雲精錬所に入った。やがて上京し、当時屈指の出版社文淵堂の社員となり文才が開花。後に読売新聞社、大阪毎日新聞社、平凡社と渡り歩きジャーナリストとして活躍し多数の著書がある。大正デモクラシーを象徴とする名歌としてしばしば引用される「豊葦原瑞穂国に生まれ来て米が食へぬとは嘘のような話」の作者として歌人とも知られている。石碑はこの歌を刻んだ歌碑である。歌碑が建てられた4年後の昭和49年4月30日、東京で死去した。(阿仁町史より抜粋)

佐藤信直 石碑建立は昭和8年(1933)
明治4年2月10日、仙北郡白岩広久内村に生まれた。父は医者で坊沢、米内沢、五味掘など各地に転居したため、信直は米内沢小学校を卒業した。東奥義塾中学校を卒業後森吉小学校の雇教員となったが、上京し医学専門学校に入学。明治38年、帰郷し銀山で医院を開業し同時に阿仁合町医、荒瀬村医を務め、のち、阿仁合、荒瀬の校医、米内沢警察医を兼務。町会議員、郡会議員、郡医師会長などにも選出された。
大正2年、私立阿仁実科女学校を設立して校長に就任、昭和3年には私財を投じて校舎の新築を行った。昭和12年死去した。(阿仁町史より抜粋)
※頌徳(しょうとく)とは、徳をたたえるという意味です。

 畑町愛宕神社(はたまちあたごじんじゃ)

 
建立、由来は不明です。
鳥居はなく、入り口に神社再建の記念碑があります。
社殿には2箇所の独立した扉があることから、複数の祭神が祀られていると思います。

このページの上の方にある「阿仁ぶらマップ」によると、畑町愛宕神社・稲荷様となっています。
お稲荷様が祀ってあるのは"新町愛宕神社"で看板作成のミスではないかと、ふと思ったのですが・・・。
もっとも、片方の扉の奧にお稲荷さんが祀られているのかもしれません。
ちなみに、写真左で奧に見える建物は畑町児童館で、社務所ではありません。

 山仙號之碑

 
畑町の墓地の一角にあります

読み方は「さんぜんごうのひ」で合っているのでしょうか?^ ^;
周囲に説明板もなく、この石を見ただけで理解できる方は稀でしょう。(私も全く意味不明でした)

結論から言うと、これは馬の石碑です。
阿仁は古くから馬の飼育が盛んで、脚、腰、蹄の丈夫な優秀品種は「阿仁馬」と呼ばれていました。
碑にある「
山仙號」は阿仁馬産の改良増産に務め、伝統ある阿仁馬の名声を高めた、山田理左衛門が購入した優良種牡馬で、阿仁馬の改良に優秀な実績を残した馬です。

光線の関係で、石碑に電柱の影が落ちています。

 菅江真澄の道『十歩一御番所跡』

 
菅江真澄(すがえますみ)
宝暦4年(1754年)三河岡崎生まれ。文政12年(1829)7月19日角館で病死。本名は白井秀雄。
半生を秋田で過ごし、秋田でその生涯を終えた国学者、紀行家で、秋田の文化を高めた一人である。
真澄の放浪は阿仁にも及び数々の見聞録や「阿仁の沢水」という画集を残している。
平成2年、阿仁町青年有志による、真澄の道に沿った8基の標柱の建立が行われた。(以上、阿仁町史より抜粋)

「十歩一御番所」に関してはどういうものなのか分かりません。"跡"はどれを指しているのかすら分かりませんでした。階段を上がると小さな祠に庚申塚がありました。

「菅江真澄
の道」の標柱には歌が書かれ、正面には「畠町(はたまち)」という旧町名が記載されています。(現畑町)
実際にここを歩いたかどうかは不明ですが、歌に町名が織り込まれているのでこの辺りを歩いたことは確かでしょう。この階段が古い道と言うことではないと思いますが・・・。(階段は上の祠のためのものだと思います)
標柱は8基あるのですが、ここ以外に真木沢の稲荷神社(下参照)入り口で見つけました。他6基あるはずなので興味がありましたら探してみて下さい。

 稲荷大明神(真木沢)

 
建立、由来は不明です。
林業研修センターに向かう途中にあります。入り口に「菅江真澄の道」の標柱がありました。

 稲荷大明神(新町)

建立、由来は不明です。
鳥居を3本と、太鼓橋を抜ける贅沢な参道。お堂はシンプルでした。
横に庚申様の祠があります。
神社とは関係ないのですが、鳥居の手前に井戸があり、現在でも現役のようでした。

 旧宮越商店

 
間口11間もある旧家です。
幕末の豪商と言われる宮越家、鉱山が華やかしき頃の呉服屋の建物が今もそのまま残っています。民家ですので敷地内、屋内とも見学は出来ません。

阿仁合に古民家はもうありませんし、町の中心地の銀山周辺は大火があったため、古い建物は残っていません。たぶん、阿仁合では一番古い民家かと思います。

 北緯40度交流広場
 
広場の一画に三角の形をしたモニュメントがあります。この2個のモニュメントを見通す線上が北緯40度になります。(写真右)
広場の奧に四阿(あずまや)がありますので、水無散策の休憩場所にご利用下さい。

 

 御蔵稲荷神社

 

町の外れにひっそりたたずんでいました。建立、由来は不明です。
"みくら"と読むのでしょうか?この場所の字名です。
お堂の造りはさほど古いものではありませんが、昨今のサッシではなく木の扉でした。鳥居は傷みが激しく傾いていました。

 山神社(さんじんじゃ)

正式には「阿仁鉱山山神社」と言います。
祭神は金山毘古大神(かなやまひこのかみ)で鉱山の神様として信仰されています。
文正年間(1466)の創立と言われていて、向山銀山に神社を建立、後に畳台に、更に下新町善勝寺に移転。
大正2年(1913)下新町の大火で焼失し、現在の場所に社殿を建築しました。
国道105号線のバイパス開通によって参道が分断されてしまいましたが、以前の鳥居も健在で通行可能です。(草ぼうぼうでしたが・・・)国道の建設で斜面は切り取られましたが、参道の石段は当時のままです。
狛犬像はなく、社殿入り口の梁に狛犬の彫刻が施されています。石灯籠は
市指定文化財になっています。

 忠魂碑(ちゅうこんひ)

 

戦没者の供養のために建てられた慰霊碑です。奧にも石碑が1基ありますが内容は確認していません。
山神社の参道途中にあり、国道から1段高い場所にあります。以前は鳥居をくぐった正面に見えていましたが、現在ここから鳥居を見下ろすと、結構な勾配であったことに驚きました。

 かなえ橋

 
前述の弁天様のある付近で、道路を挟んだ反対側にあります。
どこから移設したのか、新設されたのか、はたまた元からここにあったのか、由来も含めて不明です。
水路には水芭蕉が植えられて(元々あった?)いますので春(4月下旬)は花を見ることが出来ます。

 ?神社

 
上新町から向山へ渡る橋のたもとにあります。
何を祀っているのか、由来等は全く分かりません。

 ?神社

 
国道105号線と旧国道の交差点付近。荒瀬から阿仁合駅に向かう道で茶屋庫(ちゃやくら)と呼ばれる場所です。
何を祀っているのか、由来等は全く分かりませんが、古くは火葬場があった場所なので、何かの関連があるのでしょうか?
雪から守るためなのか、屋根の下に小さな祠がたたずんでいます。

 

観光案内がてら、久しぶりに阿仁合の町を歩き回ってみました。こうやってみると、何もないような小さな町でしたが結構見る所があるものですね。
私は住民ではありませんので由来などは詳しくは分かりません。文献や、地元の方のお話でも伺えばもう少し詳しくお伝えできるのでしょうが、今回は存在確認と写真による外観の紹介でご勘弁下さい。(建物内部や本尊、神体は撮影しておりません。)
神社は無人で、お堂や祠は施錠しているのがほとんどだと思います。施錠されていなくても無断で開けないようお願いします。祭礼の際や旅行ツアー等で許可がある場合は拝観できますので、機会がありましたら御参拝下さい。
お寺は、長福院以外は住職がいらっしゃいますので、見学可能か事前にご連絡をお願いします。

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