根子集落へようこそ!

この地域では古くから神仏に信仰が深く、各集落に小さな神社や祠が祀られています。(寺院は阿仁合駅周辺に集中しています)
小さな集落ですし、特に有名な建造物という物ではありませんが、根子にも小さな神社があります。それらを中心に、史跡などを紹介します。
忘れていけないのが国の重要無形文化財「根子番楽」と、根子の文化の象徴である「阿仁マタギ」。こちらは別格なので、別項目で紹介します。

神仏には詳しくありませんので、ネットで調べました。主にウィキペディア(抜粋、加筆)です。勘違いや的はずれな表記がありましたらご指摘下さい。正直、ネットで調べても表記が難しすぎてほとんど理解できません。 ^ ^;;;;

 

根子山神社
 
創立や神社の詳細は分かりません。(集落の詳しい方に聞けばおおよそは分かるかも?)
山を生業とするマタギの信仰の神様、山神様を祀っています。自然崇拝であるため、普通の神社のように神話に登場するようなご神体はありません。
マタギ連中が信仰する山の神様は女性の神様で、かなりの醜悪な容姿をしていてヤキモチやきとのこと。それ故、女性が山に入ることを嫌い、マタギは山に入る際、シカリ(頭領)は「オコゼを」携えるとのこと。山の神様は「オコゼ」の容姿を見て、自分より醜い姿に喜び、山の恵みを下さるとのことです。

根子では、「神社」と言うときはこちらを示します。初詣も、もっぱらこちらを利用しています。
子供の頃は遊び場としてよく利用していました。境内はもちろん、かくれんぼと称して社殿の中はもとより、縁の下、天井裏まで使いました。大人に見つかったら怒られるでしょうが時効でしょう。そう言う大人にも身に覚えがあるでしょう?
 

参道の入り口です。昔は急な石段でしたが、現在はコンクリートで作り直され、勾配も緩やかになりました。

鳥居は以前も鉄製でしたが新調され、色も緑から茶褐色に変わりました。子供の頃は非常に高く感じたのですが、あまり感じません。(新調にした際に小さくした?)

階段を上がりきる途中に説明用の立て看板があります。 

 

社殿正面です。小さい社殿ではありますが、小さいながらも風格があり、しっかりした造りです。
社殿奧の格子扉の中にご神体、扉の前には燭台、賽銭箱等があります。

狛犬(こまいぬ)。向かって左側は口を閉じた「吽形(うんぎょう)」

古くは、左側が角を持った「狛犬」、右は角を持っていない「獅子」。鎌倉以降簡略さされ、昭和以降は角の無い「獅子」の形態のものを二対で「狛犬」と呼ぶようになったそうです。(出典:ウィキペディア)

狛犬。向かって右側は口を開いた「阿形(あぎょう)」。
元の台座は、玉石造りでしたがコンクリート製に変わっています。

社殿正面右側から。
昔は回りの木々で陽射しが遮られ薄暗かったのですが、境内の杉の木以外は伐採されていて明るくなっています。

社殿正面左側から。
 
 
 


 
後からの姿。杉の木がかなり生長しています。

 

鳥居をくぐった左側に「山神社」の標柱があります。
なぜここに?参道の入り口にあった方がよさげな感じなのですが、何か理由はあるのでしょうか?
前述の狛犬の土台はこのような造りでした。 

鳥居の手前、お稲荷さんの祠があります。昔の祠は朽ちたのでしょう?新しく作られていました。中には陶器の狐様が置かれていました。安っぽい感じですが、それでも信仰に変わりはありません。 

鳥居をくぐった右手には戦没者の「忠魂碑」と「慰霊碑」が置かれています。「忠魂碑」は元々旧道(林道)に設置されていましたが、移設したようです。でも、石柱、こんなに背が低かったですか?すごく高かった記憶があるのですが・・・??

 
 

根子神社
 
創立は不詳ですが、1655年頃(明暦元年頃)とされています。祀られているのは、少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)と言う日本神話における女性の神様です。
少彦名大神は、大国主(おおくにぬし)の国土造成に際し、天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って波間より来訪し、大己貴(おほなむち)大神の命によって国造りに参加。多くの山や丘の造物者であり、命名神です。国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持ちます。 
秋田では有名な「太平山三吉神社」も少彦名大神を祀っています。
 
立て看板では「少彦名大神=観音様」のような表記ですが、多分勘違いです。
観音様(観音菩薩、観世音菩薩)は日本で最も馴染みのある仏さまで、法華経の一部、観音経の中に説かれいる菩薩様で、すむずかしい理屈や教理を説かず、人間の欲を満たしてくれる範囲の神格がとても魅力的で、昔から多くの人々に愛されており、ご利益を現す仏様の代表的な存在になっています。
仏教宗派によって多種の観世音菩薩があり、六観音、七観音、十五尊観音、三十三観音など多様多種な別身を派生しています。観世音菩薩は、本来男性であったと考えられますが、日本では女性的イメージが強い観音として扱われています。(慈悲深い母のイメージがあるため)
 

田んぼ(休耕)の奧に小さな祠が御神木の枝に包み隠されるようにたたずんでいます。神木ははケヤキだと思いますが、普通ほうき状に形成するので違っていたらごめんなさい。

前述の「根子山神社」から旧小学校に向かう途中にあります。入り口に説明用の立て看板があり、ここの田のあぜ道を通って社殿へ。 

昔は木で作られた鳥居がありましたが、朽ちてしまい鉄製の鳥居が作られました。社殿も茅葺き屋根でしたがトタン屋根に改築されています。 

 

社殿正面から。手前左右に石灯籠があります。
私はお参りしたことがないので、機会があったら中を拝見してみようと思います。

社殿の側面。御神木以外は鬱蒼とする杉の林です。薄暗い所にあったので、子供の頃は近寄りませんでした。 

鳥居をくぐった右横にある祠。格子戸だったので中を覗くと、石の仏様が収められていました。この祠が観音様でしょう。 

 

庚申様
 
旧暦では、十干と十二支を組み合わせた60通りを日に割り当て、庚申(かのえさる)もその一つです。「庚」も「申」も「金」に属し、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされ、忌日とされています。
「庚申」は元々中国の道教から来たもので、仏教では、「青面金剛(しょうめんこんごう)」、神道では申(さる)から連想し「猿田彦神(さるたひこのかみ)」を祀っています。また、猿を庚申様の使いにみたて、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿信仰にもなりました。
このように、日本では人々ののさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合って複合信仰となっています。
 

以前の鳥居が朽ちたので新しくしました。白木で、良い雰囲気を醸しています。
トンネルから下ってくる坂道の途中にあり、墓地に隣接した少し高台になった場所に置かれています。

鳥居をくぐった左側に立てられた物体。これは何でしょう??

庚申様の祠の横にはお地蔵さんの祠があります。お地蔵さんは仏教の菩薩の一尊ですから、鳥居をくぐってお参りって言うのもどうかと?。そう言えば「根子神社」も神と仏が一者に並んで(祠は別ですが)いましたし、我が家には仏壇も、神棚もあります。神も仏もすがれる物はすがってしまえの考えでしょうか。 ^ ^;;

 

庚申様も大きな杉の木の下に祀られています。

 

 

 

神社等は無人の状態ですし、扉は簡単に開くことができます。しかし、これらの神社等は集落の信仰の対象であるため、むやみに扉を開けたり中に入ったりする行為はご遠慮下さい。

 

魚形文刻石(通称:鮭石)
 
大正時代に発掘された石で、烏帽子の形をした安山岩に魚の形を線で掘られた石です。出土した場所が縄文遺跡近くだったため、縄文時代中期と推定されています。特筆することは、海が近くになかったこの地でも漁をしていたと考えられることです。通称「鮭石」と呼ばれますが当地に鮭は遡上しません。多分漁をしたのはサクラマスやイワナ、ヤマメ等の川魚かと思います。昭和30年に県の文化財に指定されています。
昭和45〜47年頃(時期があやふやで申し訳ない)に旧小学校の体育館横の芝生地に置かれましが、それ以前までは何処に保管してあったのでしょう。小学校に移設され初めて存在を知りましたが、当時の教頭先生に説明されたのですが、あまり興味はありませんでした。
 

以前は雨晒しでしたが、現在は小屋の中に収まっています。ただ、意図したのかしていないのか、見せる面が間違っていて残念です。

小屋の横にで説明のプレートがあります。 

石の写真です。当時は別の方向で見ていました。石は斧の形をしていて、線刻をチョーク?でなぞっていました。(この石の左面です。チョークの跡はありません。)

 

この面を見渡したのですが、それらしい刻印はこの1個だけでした。どれだか分かりますか?

 

 

 

縄文遺跡
 
子供の頃の遊び場でした。よく鏃(やじり)を拾いにいったものです。2箇所とも田んぼだったので、地中にあった鏃は春に土を耕し秋には地表面に出てきているため、稲刈り後はよく見つかりました。鏃は黒曜石(こくようせき)で作られていて、長さ3〜5cmの細長いものが多く、尻には矢に結ぶための突起が付いているものもありました。
土器の破片や、黒曜石の破片も沢山ありましたが、それらには目もくれず、ひたすら鏃探しに没頭していました。
大人達はそんな物には興味ないらしく、縄文時代の遺跡に目もくれていませんでしたが、後年、学術調査が入ったらしいので鏃や、土器の破片、黒曜石の破片すら全て持ち去られたことでしょう。現在はただの廃墟になっています。
鏃は結構集めたのですがどこに仕舞ったのでしょう?家の建て替えに捨てられたのかな?
 

舘下段(たてしただん)の遺跡。
前述の魚形文刻石はこの付近で発掘されています。
右の田んぼ付近だったと思うのですが、道路が作られ、圃場も形を変えています。いずれにしても遺跡は跡形なく消えています。

鬼舘野(おにだての)の跡地。棚田の一番上の田1枚と、その横の土手付近が跡地だったのでしたが・・・草むらになってしまって、当時の田の位置さえ確認できませんでした。多分この辺りだったと思います。
遠いのであまり行きませんでしたが、必ず数個は拾えました。ここは土器の破片が結構ありました。

 

 

化石地層(跡地)
 
一般に、阿仁地区の地層は新世代第三紀層と呼ばれ、火成岩(花崗岩等)の上に火山噴出物の緑色凝灰岩(グリーンタフ)で構成されている。この地層の特色に植物化石が発達しているため「阿仁合型植物化石群」と呼ばれ、落葉樹、広葉樹の温帯林のものです。
と、前置きをして。ここで紹介する化石地層はこれとは別です。^ ^;
石は粘板岩と思われ、薄く剥がれやすく、色は灰茶色(ベージュ色)から薄茶色です。化石は前述の
「阿仁合型植物化石群」と同様、落葉樹、針葉樹混合の植物化石です。
現在は、道路整備の際に法面形成されたようで痕跡はあまりありません。当時は道路を造った時の切り土面がそのままで、綺麗な地層がむき出しの状態でした。地層は右上がりに層があり、岩盤がもろいためポロポロと剥がれて下に堆積していたので、そこから化石を探していたものです。

 

当時はこの辺りに地層がむき出しで見えていました。
多分盛土形成していて、地層はその中に埋まっていると思います。ただ、粘板岩の小さな破片が散らばっていますので、跡地はここで大丈夫でしょう。(掘らないでください。) 

ちょっと探してみましたが、破片が小さすぎてなかなか見つかりません。やや大きい破片が見つかりましたので写しておきました。 

 

 

炭坑跡地
 
詳細は不明です。手元の資料や、ネットでは分かりませんでした。
昭和40年頃、坑口には建物の廃材などが捨てられていて中には入ることができませんでした。結構深い斜坑が掘られていたようで、中を見ても真っ暗で見えませんし、石を投げ込んでも反応がありません。坑口の周りは空地があり子供の遊び場となっていましたが、特に事故もなく長期間放置したままです。
多分、根子の地下は網の目のように坑道が巡らされているのでしょう。我が家の直下にも坑道があったと言われていて、わずかですが年々沈下していたようです。(現在は沈下は収まっているようです。)
現在の坑口は民家の庭先に残っていて、坑門の壁(ウイング)が少しと坑口の上部がわずか残っています。
道路の高さと坑口の高さの取り合いが昔と大きく変わっています。当時、坑口は道路から高い位置にあったのですが・・・。宅地にする際に坑口が見えないぐらい盛土したことになり、合わせて道路も嵩上げしたのでしょうか?
 

庭木の奧にコンクリートの塊が見えます。これが炭坑の坑口です。完全に民家の庭にあります。 

坑門はかなり朽ちていますが、坑口の覆工も残っています。根子の遺産なのですが、かわいそうな扱いです。 

わずかに残った坑口です。隙間を隠すため側溝の蓋で覆っていました。鎖で固定していたようですが・・・1枚だけ残し、他は外していました。 

 

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